桜楓塾講演会「EU(欧州連合)の成立と現在」[2]
内田 晃
◆欧州統合思想
こうした大局的な流れの一方で,悪化していく戦勝国と敗戦国の関係(特に仏独関係)を改善し,欧州各国がひとつにまとまる必要性を説く動きがありました。この欧州統合思想を最初に掲げたひとりがリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(1894-1972)(*1)で,その先駆的な思想活動から「欧州統合の父」といわれています。
カレルギーは,世界は米国,イギリス,欧州,ロシア,そしてアジアの5つの勢力圏に分けられると考え,欧州ブロックは第一次大戦の戦火で戦勝国も敗戦国も甚大な損害を被り,分裂状態にあるという危機意識を有していました。彼の考え方には当時の欧州独自の立場が表れています。
ひとつは,米国とロシア(当時はソ連)が明確に分けられている点です。当時の欧州はソ連の脅威に対抗し,米国との経済競争に対抗しなければならない状況にありました。もうひとつは,イギリスとヨーロッパを区別している点です。これは主に当時のイギリスの経済基盤が他の欧州各国よりも遥かに安定しており,イギリスは単体で成立し続けられると考えられたためです(*2)。
カレルギーは,このような危機的状況にある欧州ブロックが生き残るためには,欧州諸国がひとつにまとまる必要性があると考えました。彼の欧州統合思想は当時,かなり先駆的でしたが,続く第二次世界大戦を経て,徐々に現実的な案として受け入れられていきました。
この流れをさらに促進したのが冷戦時代における米ソ対立構造でした。特に地理的に隣接するソ連勢力の拡大に対する対抗手段として,欧州各国統合の重要性が認識されていきました。例えば,欧州内では先の大戦のきっかけになった仏独関係の修復に焦点が置かれ,様々な歩み寄りが考案されましたが,そのひとつが1950年のシューマン宣言です。また,1951年には欧州石炭鉄鋼共同体が設立されました。この共同体は,主として武器・兵器に使われた鋼鉄と石炭の供給・使用を制限することで,経済的な面から戦争の再発を防止することを目的としていました。戦後の欧州復興に力を入れていた米国の支持が得られたこともあり,経済的な側面からの欧州統合を進めようとする試みは,1958年の欧州経済共同体(EEC)の発足へと繋がっていきました。
────経済の他に文化的側面からも欧州を統合しようというアプローチはあったのでしょうか?(塾生N.O.)
欧州統合という発想の背景には,主に戦争や経済的な問題がありました。例えば,米ソ冷戦構造の下での安全保障上の問題,米国製品の輸入に対抗するための自国製品の優位性の維持といった経済上の問題です。そのため文化面から統合を試みようという動きは二の次にならざるを得なかったと思います。欧州各国は自国の文化・風習といった自国のアイデンティティーを相互に尊重し維持しながら,経済的なメリットを追求し統合を果たしたのだと思います。
また,「欧州文化」と言っても実際には各国の間で大きな違いがあります。民族も言語も多岐にわたり,宗教も異なります。余談になりますが,食文化を例にとるならば,イギリスとフランスは地理的には非常に近いのですが,食生活における基本的な考え方は大きく異なります。一般にイギリス人は「生きるために食べる」といわれているのに対して,フランス人は「食べるために生きる」といわれています。グルメガイドなどでイギリス料理が低く評価されることが多いのに対し,フランス料理は美味しいものとして紹介されがちなことをイメージするとわかりやすいでしょう。また,ドイツは土地が痩せているため,ドイツの主食は芋と言われています。そして保存的要素の強いソーセージやキャベツの酢漬け(ザワークラウツ)が有名です。
このように幅広い文化の違いを統合しようというのは,経済的な統合よりも難しかったのではないかと思います。ただ,統一市場の発達により,自国に足りない食料品を安価な価格で輸入できるようにすることで,食料供給の大幅な改善や食文化の交流を促したのではないかと思います。
*1: カレルギーは,オーストリア・ハンガリー帝国の外交官であった父のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と日本人の母,青山みつのと間に生まれた,日本出身のオーストリア政治活動家。1923年頃より『パン・ヨーロッパ』という政治雑誌を発行し,欧州統合思想を欧州各国に説いていました。
*2: カレルギーが示した勢力圏構想に欧州独自の立場が表れているもうひとつの点は,アフリカ諸国が勢力圏から除外されていることです。これは当時の欧州各国にとって,アフリカ諸国は自国の植民地であって自国の経済発展の要としてそのまま維持されるべきものと考えられていたからです。
講師略歴:
内田晃氏 1981年明治大学政経学部卒。都市銀行での勤務経験を経て1985年に外務省入省。英国ランカスター大学にて国際関係論・戦略研究で修士号取得。
本稿はJaponism Victoria, vol.8 nos.8 and 9, 2016-2017に掲載された同名記事に加筆修正を加えたものです。