算命学の泉[3]
尾崎 光越(www.honkakuuranai.com)
◆運命のバイオリズムと心の真理<その2>
これまでの2回の連載で,私たちは宿命を自分自身で変えるのは難しいのですが,運命は自分の考え方と行動の仕方で変えられること,そして,良い運命をもたらす考え方や行動は集団のサイクルといわれる,ひととの関係の持ち方によって表れてくるとお伝えしました。今回は良い運命をもたらす考え方や行動はどの様に生まれてくるのかという,自然の法則について述べてみたいと思います。
私たちは誰しも宿命という本性の中に「我」を持っています。「三つ子の魂百まで」というように,小さい時に「我」が強いひとは歳老いるまで「我」が強いまま生きます。しかし,「我」が強くても強くなくても,人間の基本的な要求は「我」から出発しています。あるひとは「我」を通そうと喧嘩をしたり,口論をしたり,相手をののしったりもします。また,あるひとは「我」を通そうとひとを騙したり,嘘をついたりします。子どもは駄々(だだ)をこねたり,泣いたりして「我」を通そうとします。
「我」を通すと,ひとはどうなるのでしょうか。大きな「我」を通すと,そのことで得られたことへの満足度は,きっと大きいでしょう。深い喜びに酔いしれることもできます。しかし,その満足や喜びは長くは続いてくれません。やがて訪れるのは,虚脱感ともいえる孤独です。なぜなら,「我」を満たした後,人間は最も深い孤独を感じるように創られているのです。通した「我」が大きければ大きいだけ,孤独も大きくなるわけです。
身近な例でいえば,夫婦喧嘩をしたときのことを考えて下さい。言いたいことを言って「我」を出し切った後,何を感じますか。また,結婚していない方は恋人との喧嘩の時のことを考えて下さい。きょうだい喧嘩でも,友だちとの喧嘩でもよいのです。すさまじい言い合いをして疲れた後に,虚脱感に襲われた経験をされたことはありませんか。
やがてこの虚脱感が孤独に変わり,何であんなひどいことを言ってしまったのか,自分が解らなくなったことがあるでしょう。そうかと思えば,まだまだ相手の悪いところばかりが眼について,自己防衛に徹するかもしれません。しかし,どちらにしても孤独は襲いかかってくるものです。
「我」は自分を守る本能でもあるので,「我」を通すことは自分を主張することと言い換えることもできます。ですから,自分を主張した先にあるものが孤独なのです。最近は自己主張をすることが良いことのようにいわれますが,これは「自分を主張して,しっかり孤独になりなさい」といわれているのと同じと考えてください。
ひとは孤独の中に生きている時,自分を見ています。何かが動き始めています。やがて,孤独はしんみりとした淋しさに変わっていきます。しんみりとした淋しさが訪れる時,そこに見ているのはもう自分だけではなくなっているのです。今まで喧嘩していた相手の姿がそこに登場します。自分の主張だけでなく,相手の言い分を客観的に見られる力を得ることができたのです。即ち,孤独の先にあるもの,それは愛情と奉仕の世界なのです。
私は仕事柄,多くの方の人生に関わらせて頂いてきました。鑑定においでになる方は何か心配なことをお持ちです。その方の宿命からすれば,良い運命を開くことができる方なのにどうしてと思うことがあります。その原因は孤独に出会っていないことが多いのです。親から何不自由ない生活を送らせてもらっているにもかかわらず,自分の運命の開き方を学んでいないのです。不自由をさせた方が良いということではなく,どこかで孤独を味合うことが大切だということです。
10代から20代の間に孤独の経験をしたひとは,自分の人生に責任を持つ生き方をします。ただし,孤独の程度には気をつけてあげなければなりません。孤独が強すぎると心がひねくれて,自分を見つめる力を育てるどころか,他人を恨むことにもなりかねません。孤独の世界を通って,愛情の世界へ入っていくひとに育てることが大切なのです。その姿勢は自然に良い運命の開き方を導いていきます。そこまでいけば,もう生年月日に関係のない心の世界に到達したといえるでしょう。
本稿はJaponism Victoria, vol.8 no. 7, 2015に掲載の同名記事に加筆修正をしたものです。
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